50代サラリーマンの趣味サイト・「ねりうまブログ」

つれづれコラム・高円寺の街並みと「なべつぐ先生」

高円寺はボクにとって割と親しみのある街で阿波踊り大会や大道芸大会といったイベントの度に写真を撮りに行ったりしています。

約30年前の予備校時代に高円寺に通ったことがあります。

↓ 高円寺駅からの眺め。今、当時の予備校校舎の一部は居酒屋になっています。少子化の影響でしょう。

中央線の通勤電車から高円寺の街並みをぼんやり眺めていた時、ふと高円寺の予備校に数学講師として来られていたなべつぐ先生のことを思い出しました。

40代以上で大学受験をした経験のある人なら、当時書店の参考書売り場に並んでいた「なべつぐのあすなろ数学」というちょっと変わった名前の受験参考書をご存知かもしれません。
本名は渡辺次男で、受験数学の名物講師で、ボクは教え子の一人だったのでした。

車窓を眺めていると、芋づる式に当時の思い出がよみがえり、先生には一言お礼が言いたかったと思ったのでした。

高校時代のボクは勉強への意欲を失くし、かといって親の期待は裏切れず、で中途半端な気持ちのまま浪人生活に突入しました。
バイトしたり、旅行にいったりブラブラしていたわけなのですが、そのうちに自虐的な言い方をしてしまえば、大学に行って少々真面目に勉強するくらいしか才能のない人間であることに気づき、遅ればせながら受験勉強を始めました。

行きたい学部は文学部だったので、受験科目は英語・国語必修、選択科目は社会科というのが普通でした。ところが社会科の暗記がどうにもダメでした。
大学によっては文学部でも選択科目に暗記のいらない数学があることに気づき、そちらで受験すればいいとお気楽に考えたのが、なべつぐ先生の教え子になるきっかけでした。

受験勉強を始めたものの、日頃勉強する習慣はなかったので、一からはじめる感じでした。

英語はマンガとダジャレで5000語を暗記する本と「えいひん」という薄い英文法の問題集をひと月くらいかけて丸暗記したら、目途が立ちました。

国語は読解が苦手、というより今もって模範解答が本当に正しいのかわからないくらいだったので、そちらは諦め、漢字と熟語、それに古語を丸暗記で他の科目の足を引っ張らない程度にやればいいや、と水準点を定めることにしました。

七転八倒したのが数学で、黄色いチャート式などの本を机に広げると5分もたたないうちに眠くなってしまいます。そんな中、書店で見つけたのが「なべつぐのあすなろ数学」なのでした。
他の本だと眠くなるのになべつぐ先生の本だと全く眠くならずスイスイ進むようになりました。

今、なぜあの本がよかったのかと考えてみると、問題の配列に妙があったように思います。
数学の教科書には単元がA, B, C, D…と並んでいるとします。試験問題はAだけの知識とかBだけの知識だけで解けるような単純なものはなく、AとDを組み合わせるとか、A,C,Eの知識を組み合わせるとか、そんな問題が出題されます。
一般の受験参考書は、ABパターンの問題、ACパターンの問題と続きますが、なべつぐ先生の本はABパターン、ABパターン、ABパターン、次にやっとACパターンと同じパターンの繰り返しで一問理解すれば、スイスイ進む構成になっていたのでした。
そしてなぜかところどころ応用問題が袋とじになっていて、基本的な問題を解いた後、ペーパーナイフを入れるのが楽しみでした。
週刊誌の袋とじ記事ほどのワクワク感はなかったですけど(笑)。それでも勉強が進んだ感を感じるのに十分な工夫がされている本だったのでした。

苦手だった数学が得意になっていくにつれ、この先生に教わりたいという気持ちが抑えきれず、先生が出講していた高円寺の予備校に通うようになりました。

↓ 当時通った予備校はまだ残っていました。よかった。よかった。

なべつぐ先生、実際にお会いすると思ったより小柄な老人でしたが、どんなに広い教室でも大きなザラザラした地声で説明されていました。
授業中の脱線話で、戦時中徴兵されていた時のことをお話されていたので、当時60代後半か70代前半だったのと思います。
授業は独特で、自分の授業は予習も復習もいらないとおっしゃるのです。
授業の初めに例題をひとつ説明すると、黒板に問題を出してひたすら生徒に問題を解かせるのが先生のやりかたでした。
机の間を回り、手こずっている生徒にはやさしい問題を与え、解き終わり暇そうにしている生徒には、少し難しい問題を出すのでした。生徒の後ろから一瞬ノートをのぞくだけでその生徒の理解度がわかるみたいで、その場ですぐ理解度に即した問題を出されるのでした。

まさに神業って感じです。

授業前に講師室へ行き、「もう少し勉強したいのです」と言うと、じゃぁ、来週この問題集を買ってページをバラバラにしておきなさいと言われ、頭の中は???だったのを覚えています。

腑に落ちないながらも翌週、そうやって持っていくと、バラバラになった問題集にいくつか丸印をつけて、この問題をハサミで切り取りノートに貼って、解いて持って来い、とおっしゃられました。

???と思いつつも翌週ノートを持っていくと、ボクの回答を見た後、じゃぁ、来週はコレとまた丸印をつけてくれます。
それを繰り返すと薄いノートは分厚くゴワゴワになってきて、不思議なことに厚みに比例するように模擬試験の成績は上がっていったのでした。

そして先生との間で忘れられないできことがあったのが、いよいよ受験も近づいてきた正月明けでした。
今思えば、既に成績は十分に志望校を突破するだけの実力はあったのですが、なにぶん不安で仕方がありませんでした。
家では親の口からはでないものの「穀潰し」的雰囲気を感じていましたし、友人たちは楽しい大学生活をおくっていて、ボクには居場所がなかったのです。

講師室で先生に相談があると言うと、じゃぁ近くの喫茶店へ行こうと言われました。

「ボクは不安で不安で仕方ありません」

「君ならきっと大丈夫だよ」

追い詰められた気分になっていたボクは先生の呑気な言葉にブチ切れてしまいました。

「じゃぁ、先生はボクが落ちたらどう責任を取るつもりですか!」

と言ってはならない言葉を言ってしまい、口元からその言葉が零れ落ちた瞬間に大きく後悔してしまいました。
そうしたら先生は、ニッコリしてふわっ、ふわっ、ふわっと大笑いし、

「君が落ちたら、ボクは裸で逆立ちして高円寺をまわってあげるよ」

と言われました。ボクはその言葉にすっかり毒気が抜かれてしまい茫然としてしまいました。
自宅へ帰るとなんだか気分が落ち着いて、また問題集を広げて前に間違えた問題をやり直し始めました。

↓ 当時、よく通っていた喫茶店も残っていました♪

受験した学校にはすべて合格し、お礼に伺いたいと思っていたのですが、それも楽しい学生生活を送るうちに忘れてしまい、思い出したのは30年後でした。

受験というものは、人生における困難の中で最も楽な部類に入ると思っています。出題される範囲は決まっているし、答えは一つしかないからです。
ただ当事者だったその当時は超えるのが途方もなく困難な高い壁に見えました。
ボクの人生の中で最初に困難に立ち向かったのが、高円寺の予備校で先生と過ごした日々だったように思え、今ボクが在るのはまさに先生のおかげだったと思っています。

ですが、それに気づいたときに先生は既にいなくなっていました。
朝の通勤電車の中で軽い胸の痛みを感じながら事務所へ向かったのでした。

↓ このラーメン店は当時できたばかりだったと思います。

↓ 腹を空かせた予備校生に大盛りしてくれた中華の「大陸」。当時巨大な鉄鍋を振り回していたオヤジが体調不良で休業している模様

↓ 当時、ここにスキンヘッドの兄ちゃんがやっている小さなラーメン店がありました。白濁スープに薄い透明な油が覆ったラーメンで、醤油味の東京ラーメンしか食べたことがなかったボクにはとても新鮮な味でした。
あの兄ちゃん、どこにいったんだろう?

↓ 当時からこの通りはこんな雰囲気でした。

↓ 裏通りの風景をちらほら

後日、先生のお孫さんから次のようなコメントをいただきました。涙、涙でした。

ーーーーーーーーーーーーー

初めまして、何かの縁をありましてこのブログに辿りつきました。
信じてもらえないかもしれませんが、なべつぐの孫にあたるものです。

祖父も『どう責任取ってくれるんだ!』って話を僕にもしてましたよ(笑)驚いたと言いながらも、笑って話をしていました。その笑顔の真意は分かりませんが、こうした生徒さんの一つ一つの姿が僕の大好きなじいちゃんを形成していたのかと思うと感謝の気持ちで一杯です。

* Twitterで更新情報を通知しています。
* この記事は旧ブログの改訂記事です(2013年9月初出)

モバイルバージョンを終了