写真を撮っている人は誰でも、見てくれる人にインパクトを与え記憶に残る作品をつくりたいと、程度の差はあれ、思っていることでしょう。
写真展に展示されているような優れた写真はどれくらいの確率で人の印象に残るのかを考える面白い経験をしたのでメモしておきます。
なお、この記事は私の直感と思いつきで記載しているものです。また、読む人によっては上から目線で偉そうに語っているように感じるかもしれませんが、まったくそういう気はありません。悪しからず。
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私の職場はフォトギャラリーが近くにあるので、昼ご飯の帰りとか、時間の空いているときによく写真展を見に行きます。写真展は長い期間やっているので同じ写真展を何度も見ることになります。
先日、ある大学の写真学科の写真展がありました。
この写真展は、学科に在籍する学生200名が自慢の一点のみを展示しています。200枚の写真が壁にズラリと並べられており、タイトルや撮影者の名前さえ表示されていません。
ポートレート、動物、スポーツ、自然 etc…ありとあらゆるジャンルの写真だけが展示されているのです。
写真専攻の学生のものだけあり、どの写真にも力があり、それがたくさん並べられているとものすごい迫力でした。
さて、5日後のことです。
この写真展を見に来たのは2度目です。
あれれれれ?展示内容が変わったのかな?
いいえ、
結論から言うと展示作品は全く変わっていなかったのです。
自分の記憶に残っていなかったということなのでした。
そして私は覚えてる作品を数えてみました。
な、ななんとわずか8作品...200枚もあるのに...率にして4%
これはどういうことなんでしょう?
写真の評価を考えた場合、
写真の印象の強さ = 写真そのもののよさ + 撮影者の属性
となると思います。
「写真そのもの」というのは撮影技法であったり、被写体であったりと表現手法です。これが本来の写真の評価軸であるべきですが、実際にはそうなりません。人は面白いもので無意識のうちに、それに撮影者の属性を加算して印象度を決めているように見えます。
例えば素人とプロ写真家が全く同じ写真を撮ったとしても、一般の人はプロ写真家が撮った写真のほうがいいと判断するのです。
私はボケボケの写真でも、それを撮ったのが初めてカメラを持った子供だと聞くと急に印象が強くなります。これも撮影者の属性が写真の印象度を上げている例です。
「撮影者」の属性ではありませんが、ライカで撮影された写真はしょぼくてもなんとなくよさそうに感じるのも似たような現象だと思います。
今回の写真展の例では、写真を専攻している学生が、教官の指導を得ながら作品作りをしているため
写真そのもののよさ = 満点(実際に何点かはわかりませんが)
逆に
撮影者の属性 = 0 点
と考えらえれるでしょう。
私は写真家のタマゴの学生さんたちを全く彼らを知らないので。
また、属性として「写真学生」という点を考慮する必要はありません。なぜなら出展者が全員同じ写真学科の学生で条件は同じだからです。
ここまでをわかりやすく書くと、
どんなにいい写真を撮ったとしても、閲覧者との間に関係性がない場合、閲覧者の記憶に残るようなインパクトを与えられる可能性はとても低いと...
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さて、話を続けると、そのあとまた見に行きました。3回目です。
そのとき、展示されている作品を見て、その撮影者の他の写真を見たいと思ったのはどれかを確認してみました。
200枚中、7枚でした。
そしてその中で、2回目で覚えていた作品は2つ含まれていました。ここでも確率は4%程度でした。
なぜ、こんなことをつらつらと考えるかというと、私も時々写真展をやります。
おおむね評判はいいのですが、それは多くの場合、私の知り合いが、「撮影者の属性」というボーナス効果を加算して評価くださっているからです。
それはそれでありがたいことなのですが、写真展には全く自分のことを知らない方がずっと多く来場されるのです。
その人たちから見て自分の作品はどう見えるのだろうという視点は重要だと考えているからです。
人の視線を気にしすぎると写真がつまらなくなります。
逆に他人の視線を全く気にしないと自己満足に陥りかねません。
そのバランスの上で発表していく必要があるのでしょう。
そんなことを考えながら写真展を見たのでした。
いろいろと考えさせられる、たいへん興味深いお話だと思いました。で、まだでしたら、畠山直哉、大竹昭子著『出来事と写真』(赤々舎、2016年)という対談集をつよくお勧めいたします。今回のお話と、遠いところで結びついている、とても質の高い写真論です。畠山氏の写真に対する、真摯な思いに感動しました。
上田さん、ご訪問ありがとうございます。
畠山氏の対談集、探してみますね!ありがとうございます!